Kingdom of Diversity

僕の住んでいるサンフランシスコ・ベイエリアは、その土地柄のせいかアジア系の人口比率がかなり高くて、中にはアジア系がマジョリティとなっているカウンティもあるほど。そしてこれもシリコンバレーを抱えている土地柄か、今の代でアメリカに移住してきた人たちが多い。

だからかどうかは知らないけど、常識というか空気というか、「言わなくても分かるコト」っていうのがあんまりなくて、結果的に自由で何でもアリなカルチャーとなっている…ような気がする(ただその分、自分のようにプロジェクト管理を生業としている者にはムダな苦労が絶えないんだけど)。

なので時折目にする、「アメリカ人ならこうする」とか、「アメリカ人の常識では」とかいうように、「日本人」と同じ感覚で「アメリカ人」ってまとめてしまうのは、自分の中では戦闘機も旅客機もグライダーもヘリコプターも、挙句は気球も飛行船も全部まとめて「飛行機」と呼んでしまうようなモヤモヤがつきまとう。もしこれが「シリコンバレーの香港系アメリカ人なら多分こうする」とか、「デーブ・スペクターならこうする」だったらまだわかるけどさ。

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そしてここでは多様性が及ぶ対象も人種に限らない。例えば至る所バリアフリーなのはごく当然として、昔からLGBTQ+に関してもとても寛容、というか「割とフツーに存在している感」が強い。実際、同じ部署の20人にも満たないメンバーにだって同性婚がいるし(ちなみに彼は転属してきたときに旦那とのナレソメから現在に至る経緯をまとめた冊子を配ってくれた… ありがとう、でも誰もそこまで聞いてねーから)、そもそも上司からして同性婚だし。

こういう例えがいいのかどうかわからないけど、経験的に日本でクリスチャンの人に会うよりも、はるかに高い確率でLGBTQ+の人に会うのがベイエリア。職場でも、ガタイのイイ男性の会話の中に「my husband」っていうフレーズがごくフツーに出てくるし、周りもアタリマエに受け取って話が進んでいく。

つまるところ、こういう自由さがすごく好きで、この地でダラダラと20年以上も過ごしてしまった。

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そういえば人種や民族については忘れられない思い出がある。

大学生の夏休みにロンドンで道楽暮らしをしていたときに通っていた語学学校である日、隣に座っていたずっと年上の学生が「オマエの国は多民族国家なのか?」と聞いてきた。

「基本的に単一民族だけど、朝鮮半島からきた人も結構な数いるし、北の方に行くとネイティブの民族もいるよ。」

「そうか。そういう人達とはうまくやってるのか?」

「表立って揉めることはあまり無いけど、多少はぶつかることもあるよ。」

彼の次の一言に僕は言葉を失った。

「あのな、民族間で争うのは当たり前のことなんだよ。他の民族とうまくなんか絶対にやれるわけがない…」

うーん、そうかもしれないけど、そうじゃないほうを僕は信じたい、とその時の僕は言いかけてやめた。

その学生が来た国の名はユーゴスラビアと言った。